
絵描きのひつじです。
はじめまして。あるいは、いつも私の作品を見守り、寄り添ってくださって本当にありがとうございます。
普段は「光」をテーマにしたアートを制作し、ブログやSNSで発信をしていますが、今日は少しだけ、私の個人的で、そして人生を根底から変えてしまった物語を共有させてください。これからお話しするのは、一度アーティストとして完全に「死んだ」私が、どのようにして本当の光に出会い、蘇ったのかという、魂の記録です。
私はクリスチャンですが、特定の教会には属していません。巷にあるキリスト教の組織とも関わりはありません。そんな私がなぜ、聖書の言葉を信じ、神様と共に作品を作り続けているのか。この記事は、何かに縛られて息苦しさを感じている人、自分の進むべき道を見失ってしまった人、そして「本当の自由」をどこかで探し求めているあなたへ向けて書きました。
少し長いお話になりますが、私の人生のすべてを込めて綴ります。最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
目次
すべての始まり:アートに撃ち抜かれた、古本屋の午後
私がアーティストを志したきっかけは、今から30年前の高校生の時に起きた、ある「奇妙で、あまりに美しすぎた体験」にあります。
当時の私は、聖書の知識なんて一ミリもありませんでした。キリスト教という言葉を聞いても、自分には縁のない遠い世界の出来事だと思っていた、ごく普通の高校生。そんな私が、学校帰りの古本屋で一冊の画集を手に取り、ページをめくり、眺めていたその瞬間のことです。
突然、世界が音を立てて消え、私の身体は宙へと浮かび上がりました。そこは、過去・現在・未来が同時に存在する、時間の概念が消滅した場所。映画『インターステラー』で描かれたような、次元の壁が崩れ去った異空間。そこで私は、この世のどんな輝きよりもまばゆい、**「世界を覆い尽くす、圧倒的に眩しい光」**という未来の光景を目にしたのです。
元の場所に戻ってきたとき、私はただただ、その美しさに圧倒されていました。
「……アートって、凄すぎるっ!!」
「私も、こんなふうに人の魂を一瞬で異次元へ連れて行くような、凄まじい作品をつくりたい!」
それが神様の御業(みわざ)だなんて、これっぽっちも思っていませんでした。ただ、表現が持つ圧倒的なパワーに心を奪われ、そのインスピレーションに突き動かされて、私はアーティストになることを志したのです。目次に答えが書いてあったのに、読んでも、当時の私には意味不明な記号でしかありませんでした。けれど、あの瞬間に受けた衝撃だけが、私の人生を突き動かす唯一のエンジンになりました。
成功のあとに訪れた、静かな「死」
それから20年以上、私は自分の力を証明するために、がむしゃらに絵を描き続けてきました。人生の大半を絵に捧げ、描くことだけが私のアイデンティティでした。憧れの著名な方に評価され、大きなチャンスを掴みかけ、「あと一歩で何者かになれる」と信じて疑わなかった。常に何かに追われているような感覚がありました。
2011年。東日本大震災の後、私は海外で開催された大きなイベントに出展する機会を得ました。2000人ものアーティストがひしめき、5万人もの観客が訪れる舞台。私はそこで、初めて「時事」をテーマにした、津波の絵を描きました。結果、最終選考の20名に選出されました。
しかし、帰国した私を待っていたのは、まばゆいスポットライトではなく、底なしの暗闇でした。
あんなに大好きだった絵が、全く描けなくなったのです。頭の中の描きたいイメージがすべて津波に流されたような、凄惨なスランプ。キャンバスを前にしても、何も浮かばない。何も描けない。もがき、苦しみ、自分から「表現」が消えてしまった絶望の日々。気づけば、暗闇の中で何年も時間が過ぎていました。アーティストとしての私は、あの時一度、確かに「死んだ」のだと思います。
20年越しの伏線回収:神様からの種明かし
表現者として死んでいたスランプのどん底で、私はリハビリのように水彩のドローイングを日記のように描き始めました。かつてのような「大作を書き上げなければ」という気負いを捨て、ただ呼吸をするように筆を動かす毎日。海外から仕事のオファーも入りましたがか、胸の高鳴りはありません。心には、まだ拭えないモヤモヤが立ち込めていました。
転機は、コロナ禍に訪れました。家での時間が増え、ふとした好奇心から中東の歴史やイスラエルのことを調べていた時、YouTubeである聖書の話に出会ったのです。
その瞬間、私の全身に電撃が走りました。「私が探していた真理はこれだ!」と、一瞬で確信したのです。理屈ではなく、魂がその言葉に平伏した。私は、一度その話を聞いただけで、救われました。
聖書を読むようになって、しばらく経ち、封印していた「あの日の記憶」が、鮮烈に蘇ってきたのです。私は高校生の頃に見ていたあの画集を引っ張り出し、目次を確認しました。
驚愕しました。私が時空を超えた瞬間に開いていたページ……そこに掲載されていた2点の作品だけが、聖書に関連するモチーフであり、タイトルだったのです。
高校生だったあの日。聖書の知識も信仰もゼロの私は、目次を読んでも「ふーん」と読み飛ばし、何のことだかさっぱりわからなかった。けれど神様は、無知だった私をずーっと見守っていてくれました。
あの絶望のスランプすら、自分の力で描くことをやめさせ、私をこの真理に導くための神様の完璧な計画だった。そして何より、あの時空を超えた瞬間に私が見た「未来」の意味が、聖書を知った今、ようやく理解できました。
それは、この世の終わりや絶望ではなく、「世界を覆い尽くす、圧倒的に眩しい光」でした。すべての悲しみも、苦しみも、罪も、その光の中に完全に飲み込まれ、新しくされる。その光景があまりに美しく、輝かしかったからこそ、私はずっとその残像を追い求めていたのだと気づいたのです。
教会に行かないクリスチャンという生き方
私は今、クリスチャンです。でも、巷にある既存のキリスト教組織には属していません。一度も教会に行ったことはありませんし、属する予定もありません。
たまに、「教会に行かない者はクリスチャンではない」と言う方がいます。でも、私に言わせれば、それは嘘です。
神様は建物や組織の中に閉じ込められている方ではありません。私たちがどこにいても、愛してくださる方です。
救われて、私は初めて「本当の自由」を知りました。誰かの評価や、宗教的なルール、そして自分を縛っていた過去の呪縛。それらすべてから解き放たれ、ただ神様と共に在ることの喜び。
私が特定の教会に属さないのは、組織を守るためではなく、神様との純粋な一対一の関係を守るためです。私はニッチな存在かもしれません。でも、この「自由」こそが、聖書が本当に伝えていることだと確信しています。あの日見た「眩しい光」の主であるイエス・キリストという圧倒的な真理。私はその愛の中に、自分の居場所を見つけたのです。
共同制作:蜜の甘さと、腹の苦さ
今の私の作品は、以前とは全く違います。
以前は「自分の力」で描いていましたが、今は「神様との共同制作」です。
私が今手がけている表現は、その時々の神様との対話によって、3つの異なる姿を持って現れます。それは、私という人間が神様と向き合う中で経験する、多層的な霊と魂の記録でもあります。
1. 「抽象画」:魂の葛藤と、神の躍動の交差
ここには、人間である私が抱える泥臭い「魂の葛藤」と、私の内側から突き上げてくる「神様の圧倒的な躍動」が激しく交差しています。その二つがぶつかり、火花を散らし、混ざり合う瞬間。その摩擦からしか生まれないエネルギーを、色の塊としてキャンバスに叩きつけています。それは私の魂のドキュメンタリーそのものであり、生命の熱量です。
2. 「キラキラアート(半抽象)」:日常にこぼれ落ちる儚い光
何気ない一日の中にふとこぼれ落ちている、神様の細やかな恵みの光、めぐみ。それらを一つひとつ丁寧に集め、結晶化させています。見落としてしまいそうなほど小さく、けれど確かな輝き。その儚い光をあなたの日常に手繰り寄せ、癒やしと静かな喜びを灯すための、祈りの結晶です。
3. 「具象画」:神の恵みへの純粋な感謝
この世界に形として与えられた美しさ、そのものへの賛美です。目の前にある恵みを、素直な祈りを込めて、感じるままに描き出しています。
無理に選んだのではなく、その時々の私の霊の状態に、神様が最もふさわしい筆先を授けてくださった。
だからこそ、どのスタイルの作品にも「嘘」がありません。その瞬間の私と神様との純粋な対話が、そのまま形になっているのです。
お気に入りのミコトバ
ヨハネの黙示録に、こんな言葉があります。
「わたしは御使いの手からその小さな巻物を受け取って、食べてしまった。すると、わたしの口には蜜のように甘かったが、それを食べたら、腹が苦くなった。」
(ヨハネの黙示録 10:10)
神様の真理に触れることは、蜜のように甘く、この上ない喜びです。けれど、それを不完全な肉体を持つこの世で表現し、形にしていくことは、時に「腹が苦くなる」ような産みの苦しみを伴います。葛藤し、もがき、それでも神様の手を離さずに筆を動かす。そのプロセスのすべてが、私の作品には刻まれています。
あなたへのメッセージ:賜物の連鎖
人には皆、神様から与えられた「賜物(ギフト)」があります。
頑張らなくてもできてしまうこと。なぜか夢中になってしまうこと。それが神様からの贈り物です。私の場合は、それが「描くこと」でした。
私が自分の賜物を全うし、神様との共同制作を世に送り出すエネルギーは、それを受け取るあなたの中にある「あなただけの賜物」を刺激すると信じています。この絵を手にすることは、単に壁を飾ることではありません。それは、あなたが本来持っている「自由」を思い出すための光を、生活に招き入れることです。
自分を責めるのをやめ、組織や常識の鎖を解き、神様に愛されている「ありのままの自分」に立ち返る。
私が見た**「世界を覆い尽くす眩しい光」**。
その光の欠片を、今、あなたの元へ届けます。
あなたが、あなただけの自由な人生を歩み出すための、一歩を踏み出す勇気になりますように。







