
「申命記 4:15──形なき神を信じるということ」
こんにちは絵描きのひつじです。
はじめに
私たちは、何かを「見る」ことで安心する生き物です。美しい風景を見て心が和んだり、大切な人の姿を見てほっとしたりするように、目に見えるものは私たちの信じる気持ちを支えてくれることがあります。
しかし、聖書には「目に見えるものに頼るな」と言う教えがあります。
特に、申命記 4:15では、**「主がホレブで火の中からあなたがたに語られたとき、あなたがたは何の形も見なかった」**と述べられ、神を目に見える形で表現することへの警告が記されています。
では、なぜ神は「形」を持たない存在として語られたのでしょうか? そして、それでもなお、なぜ私たちは神を形にしようとするのでしょうか?
この記事では、申命記の教えをもとに、「形なき神を信じる」ということについて考えてみたいと思います。
目次
キリスト教とユダヤ教の違い

• 申命記は旧約聖書(ユダヤ教の律法)に属し、偶像崇拝を厳しく禁じています。
• しかし、キリスト教はイエス・キリストを「神の子」「神が人となった存在」と信じているため、キリストを描くことが必ずしも偶像崇拝とはみなされていませんでした。
イエスは「神」ではなく「人」として描かれた

• 旧約聖書の神は「形を持たない」存在だけど、イエスは実際に人間として地上に現れたとされます。
• そのため、キリスト教美術では「神そのものを描く」のではなく、「イエスという歴史上の人物を描く」という意識がありました。
聖書を読めない人への教えの手段

• 中世ヨーロッパでは、一般の人々は文字が読めない人が多かったです。
• そこで、キリストの生涯を描いた絵画やフレスコ画、ステンドグラスを通じて聖書の物語を伝えました。
• 「信仰を深めるための教育手段」としての役割があったのです。
カトリックとプロテスタントの違い

• カトリックは聖像(イコン)を信仰の対象とする伝統があります。
• プロテスタントは、偶像崇拝を避ける傾向があり、宗教改革後はシンプルな礼拝空間が増えました。
• キリスト教の中でも「キリストを描くこと」に対する考え方には違いがあります。
申命記とキリスト教美術の関係

申命記の偶像崇拝の禁止は、基本的に**「目に見えるものに神の本質を閉じ込めること」を警戒していた。一方で、キリスト教美術におけるキリスト像は、「神を崇拝するため」ではなく、「信仰を伝えるため」**の手段として発展してきました。
だから、「偶像崇拝禁止」と「キリストを描くこと」は矛盾するように見えて、実は違う目的があったようです。
神を描いた絵:代表的な作品紹介
1. フレスコ画 – 神の描写
フレスコ画は、湿った石膏に顔料を塗りつける技法で、ルネサンス時代に特に多くの神を描く作品が作られました。この技法は、教会や公共の場所に描かれたため、宗教的なテーマが強く反映されていました。
ミケランジェロ 「システィーナ礼拝堂の天井画」(1512年)

Michelangelo “The Sistine Chapel Ceiling” (1512)
ミケランジェロの「システィーナ礼拝堂の天井画」(カトリック)は、神創造を描いた最も有名なフレスコ画の一つです。**「神創造」の場面や「アダムの創造」**など、神の力を象徴的に表現しています。神と人間の相互関係を描き、神の壮大さが伝わります。
ラファエロ 「アテナイの学堂」(1510-1511年)

Raphael “The School of Athens” (1510-1511)
このフレスコ画は、神の知恵と人間の学問の結びつきが描かれており、神の教えを受けた哲学者たちが集まっています。神学的な対話を表現し、神の知恵を探求する重要性を強調しています。
2. テンペラ画 – 神聖さと宗教的な象徴
テンペラ画は、卵黄を使って顔料を混ぜる技法で、15世紀から16世紀にかけて多くの神を描いた作品が制作されました。この技法は、より細かな表現が可能で、神の存在を繊細に描くのに適しています。
ボッティチェリ 「聖母子」(1480年代)

Sandro Botticelli – The Virgin and Child
Sandro Botticelli “Madonna and Child” (1480s)
ボッティチェリのこの作品では、聖母マリアとイエス・キリストを描いており、神の母である聖母の慈愛と神の子としてのイエスが表現されています。温かい愛と神聖さが描かれ、神の恵みが感じられる作品です。
3. 油絵 – 神の神秘と人間の神聖な交流
油絵が広く使用されるようになったのは15世紀で、特にバロック時代において神を描いた絵画が多く制作されました。油絵は、色の深みや陰影の表現が可能なため、神の力を神秘的に表現するのに最適な技法でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチ 「最後の晩餐」(1495-1498年)

Leonardo da Vinci “The Last Supper” (1495-1498)
ダ・ヴィンチのこの作品は、イエスと弟子たちが最後の晩餐を共にするシーンを描いています。イエスの言葉が示す神の計画を深く掘り下げ、神の力がいかに人間の世界に影響を与えるかが描かれています。
カラヴァッジオ 「聖トマスの疑い」(1602年)

Caravaggio “The Incredulity of Saint Thomas” (1602)
カラヴァッジオの作品は、神の存在を目の前で証明するシーンを描いています。この絵では、イエスが復活後に聖トマスに証拠を示す瞬間を捉えており、神の力が目の前で確認されることで信仰が確立される様子が描かれています。カラヴァッジオは光と影の強い対比を使って神聖な瞬間を強調しました。
ペーテル・パウル・ルーベンスの「十字架の昇架」

ペーテル・パウル・ルーベンスの「十字架の昇架」(The Raising of the Cross)は、1610年に完成したバロック時代の傑作で、ルーベンスの最も有名な作品の一つです。この絵は、キリストが十字架にかけられるシーンを描いており、その迫力と動きのある表現が特徴です。
神を描いた絵画は、時代とともに技法とともに変化し、フレスコ画からテンペラ画、そして油絵へと進化しました。どの時代でも、神の力や神聖さを描くことは宗教的なテーマの中心となり、各技法の特徴を活かして神の存在を視覚的に表現してきました。
• フレスコ画では、神の創造や神の力を壮大に描き、神の存在を象徴的に表現。
• テンペラ画では、神聖で優雅な神を繊細に描写し、神の恵みを感じさせます。
• 油絵では、神の神秘性や人間との交流をより深く、リアルに表現しました。
しかし、厳密に言えば「それも本当はダメ」

申命記 4:15 の本質は「目に見える形を作らない」ことだから、たとえ「信仰を伝えるため」でも、キリストを絵に描くこと自体が神の意志に反する可能性があります。
本来の教え vs. キリスト教美術
• **旧約聖書**では、神の形を作ることは完全に禁止されている。
• **新約聖書**では、イエスは「人間として地上に来た神」と考えられ、形として描かれるようになった。
しかし、イエスも「神の国は目に見えるものではない」(ルカ 17:20-21)と言っていて、形にとらわれるべきではないとも読めますね。
人間は目に見えるものを求めがち

• 神は「見えない」から、人は何か形にしたくなる。
• でも、それは「偶像」に変わる危険がある。
• カトリックでは聖像(イコン)が発展し、絵画や彫刻が礼拝の一部になった。
• しかし、プロテスタントはそれを偶像崇拝として排除しようとした。
本当にOKなのか?

もし申命記の教えを厳格に守るなら、キリストの絵を描くことも本来はやはりダメです。
でも、人間は「形にしないと信じにくい」から、美術が発展してしまったとも言えますね。
だからこそ、「本当の信仰とは何か?」を考えることが大切です。
形に頼るんじゃなくて、神の言葉と本質を見つめることが求められていると思います。
形にとらわれず、本質を見つめることが大切さは信仰や芸術においても、心の中で感じるものや本当の意味を大切にすることが本来の姿。
美術や信仰が形を通して表現されるのは、ある意味では人間の欲求として自然なことかもしれないけれど、その形が本当の目的を見失わせてしまわないように気をつけることが必要だと感じています。みなさんはどう思いますか?
まとめと感想

私は神の光にインスピレーションを受けて絵を描いています。
絵を描くとき、その創造力の源は神様の存在や神の導きにあると感じています。
しかし、神様そのものを偶像として描くことは決してしません。
私にとって、神の存在を具象化することは偶像崇拝に繋がる恐れがあるため、
神を形にして表現することは避けています。神の力や光、
その無限の存在感を感じることで、作品を通じて表現していますが、それはあくまで神の神聖さを敬い、偶像には依存しない形で行っています。
神の力は、物理的な形に収まるものではなく、
その存在は私たちが感じる光や力として表現されるべきだと考えています。
神が示す光の中で私はインスピレーションを得ており、その光が私のアートに反映されていくことが、最も大切なことです。
最後まで読んで頂きありがとうございます。
また次回もお会いしましょう。ひつじでした。