ピカソが容疑者?「モナ・リザ」盗難事件の以外な真相

こんにちは、絵描きのひつじです。

美術館で静かに微笑む「モナ・リザ」。

ルーヴル美術館の至宝として知られるこの作品が、かつて忽然と姿を消したことをご存じでしょうか?

1911年、誰もが予想しなかった大胆な盗難事件が発生し、世界中を震撼させました。

「どうやってルーヴルから消えたの?」

「誰が、何のために?」

まるで映画のようなこの事件は、捜査が二年間に及ぶ大騒動に発展。

ピカソまで容疑者として疑われるなど、意外な展開を見せました。最終的にモナ・リザは戻ってきましたが、盗んだ犯人の意外な動機とは…?

この記事では、モナ・リザ盗難事件の詳細と、その謎めいた経緯を紐解いていきます。歴史に刻まれたミステリー、一緒に探ってみませんか?

レオナルド・ダ・ヴィンチと「モナ・リザ」

Mona Lisa

「モナ・リザ」は、ルネサンス期を代表する芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチが16世紀初頭に描いた肖像画です。現在はフランス・パリのルーヴル美術館に所蔵され、世界で最も有名な絵画のひとつとして知られています。

ダ・ヴィンチは芸術家であると同時に、解剖学や工学、数学、天文学など多方面にわたる才能を持つ万能の天才でした。彼の作品は、細部へのこだわりと独自の技法によって、当時の芸術の概念を大きく変えました。「モナ・リザ」もまた、その技術とダ・ヴィンチの探求心が詰まった傑作です。

この絵のモデルについては諸説ありますが、有力な説のひとつが、フィレンツェの裕福な商人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・ゲラルディーニを描いたというもの。そのため、「ラ・ジョコンダ(La Gioconda)」とも呼ばれます。

「モナ・リザ」の最大の魅力は、その神秘的な微笑みと、どこから見ても視線が合うように見える不思議な表現です。この効果を生み出しているのが、ダ・ヴィンチが得意とした

「スフマート」という技法。輪郭をぼかし、陰影を滑らかに溶け込ませることで、より自然で立体的な描写を可能にしました。さらに、背景の風景がぼんやりと遠くに霞んで見える「空気遠近法」も巧みに使われています。これらの技術が組み合わさることで、モナ・リザはまるで生きているかのようなリアルさを持ち、見る人を魅了するのです。

ダ・ヴィンチは生涯この絵を手放さず、最晩年にフランスへ移住した際も持ち歩いていたとされています。彼の死後、フランス王フランソワ1世がこの絵を買い取り、ルーヴル美術館へと収蔵されました。こうして「モナ・リザ」はフランスの国宝となり、多くの人々に愛される存在となったのです。

しかし、1911年、この名画がルーヴル美術館から忽然と姿を消すという前代未聞の事件が発生しました。いったい誰が、どのようにして盗み出したのか? ここから、モナリザミステリーが始まります。

どうやって「モナ・リザ」は盗まれたのか?

ルーヴル美術館はとても広い!迷子になります。

1911年8月21日、月曜日の朝。ルーヴル美術館は休館日でした。

通常、こうした日は職員や修復作業員だけが館内に入れました。

しかし、その日、白い作業服を着た男が美術館の中に紛れ込んでいたのです。

この男の名はヴィンチェンツォ・ペルージャ

イタリア人の内装業者で、以前ルーヴル美術館で展示ケースのガラスを取り付ける仕事をしていました。

その経験を活かし、彼は警備の目をかいくぐり、「モナ・リザ」のある展示室へと向かいます。

作業服を着ていたことで、誰も彼を怪しむことはなく、

彼は展示室で慎重に絵を額縁から外し、自ら持ち込んだ白い布で包むと、

絵を抱えたまま階段を下り、誰もいない職員用の通路を通って出口へと向かいました。

しかし、途中で扉が閉まっていたため、一時的に閉じ込められてしまうのですが、

偶然通りかかった清掃員がその扉を開けたことで、ペルージャは難なく外へと脱出。

絵をコートの下に隠し、何事もなかったかのように美術館を後にしました。

こうして「モナ・リザ」は、まるで魔法のようにルーヴル美術館から姿を消したのです。

盗んだ後、どこに隠していたのか?

ペルージャは「モナ・リザ」をパリ市内の自宅アパートに持ち帰り、

部屋の片隅にあった木製のトランクの底に絵を寝かせ、布を覆って隠していました。

盗難事件が発覚すると、すぐに警察が大規模な捜査を開始。

ルーヴル美術館は閉鎖され、職員や関係者が次々と取り調べを受けました。

しかし、ペルージャは事件直後に仕事を辞め、目立たないように過ごしていたため、疑われることはなかったです。

驚くべきことに、「モナ・リザ」はそのまま2年以上も彼の部屋に隠されていました。

盗難事件に世界が騒然——モナ・リザはどこへ?

事件発覚後、フランス国内だけでなく、世界中の新聞が大々的にこのニュースを報じました。

「フランスの至宝が消えた!」、

「ルーヴル美術館の大失態!」

とセンセーショナルな見出しが並び、人々の間で憶測が飛び交った。

さらには、20世紀を代表する芸術家パブロ・ピカソまでもが容疑者として疑われ、警察に取り調べを受ける事態に。

彼の知人である詩人ギヨーム・アポリネールが、美術品の盗難グループと関係があると疑われていたため、ピカソにも疑惑の目が向けらてしまいました。

しかし、結局二人とも無実であることが証明され、釈放されます。

ルーヴル美術館は、モナ・リザが消えたままの状態で2年間も展示を続け、空っぽの壁の前で悲しげに佇む観光客の姿が印象的だったそうです。

ピカソは警察に呼ばれ、取り調べでかなり動揺していたらしい。彼はフランスに帰化する前のスペイン人だったし、当時はまだ「型破りな芸術家」として見られていたので、余計に怪しまれたのかもしれません。結局証拠がなくて無実と判断され釈放されましたが、ピカソ本人にとってはとんだ災難でした。「モナ・リザ盗難事件にピカソが関与していたかも」なんて話、今となっては面白いエピソードですね(笑)。

犯人の動機とは?

David – Napoleon crossing the Alps – Malmaison1

では、なぜペルージャは「モナ・リザ」を盗んだのか? 彼は美術品の闇市場で売りさばこうとしたのか? 実は、彼の動機は意外なものでした。

彼は**「モナ・リザは本来イタリアのものだ」**と考えていた。ナポレオン時代にフランスがイタリアから多くの美術品を持ち去ったことを知っていた彼は、

「モナ・リザもその一部であり、祖国イタリアに返還すべきだ」

愛国心に駆られた彼は、イタリアへ持ち帰り、「正義の行い」として世間に認められることを夢見ていた???

彼は1913年、ついに「モナ・リザ」を持ってフィレンツェへ向かい、美術商アルフレード・ジェリに売却を持ちかけます。ジェリは驚き、すぐに専門家に鑑定を依頼。その結果、本物の「モナ・リザ」であることが判明し、ペルージャは逮捕されました。

こうして、「モナ・リザ」はついにフランスへ戻ることになりました。

実はペルージャの「イタリアに返すため」という主張は後付けで、彼の供述では「モナ・リザは本来イタリアのものだから祖国に戻したかった」と言ってるけど、実際のところはお金目当てだった可能性が高いです。もし本当に愛国心だけで動いたなら、もっと早く誰かに渡してイタリア政府に寄付する、博物館に申し出てももよさそうなのに、2年間も自分の部屋に隠し続けていたわけで、フィレンツェで美術商に「この名画を買わないか?」と売り込みに行ってる時点で、ほぼ金銭目的だったのは明らかです。彼は単なる内装業者でした。お金にはあまり余裕がなかったから、盗んで高値で売ろうとしたと推測します。でも、あまりにも有名すぎて売りさばけなかった…というオチ。David – Napoleon crossing the Alps – Malmaison1ナポレオンがルーヴルに持ち込んだ美術品は確かにたくさんあります。「モナ・リザ」はその前からフランスにあったから、ナポレオンとは関係ないんですね。当時のフランスとイタリアの関係をうまく利用して、「俺は愛国者なんだ!」ということにしたんでしょう。

その後も続く「モナ・リザ」の受難

1913年に無事ルーヴル美術館へ戻った「モナ・リザ」だったが、実はその後も何度も事件に巻き込まれています。世界で最も有名な絵画であるがゆえに、多くの人の注目を集め、時には攻撃の対象になってしまいます。

ここでは、「モナ・リザ」が盗難事件以降に遭遇した数々の事件を紹介します。

1956年:石と酸の攻撃

1956年、「モナ・リザ」は2度にわたって攻撃を受けています。

最初の事件は12月30日、ボリビア人の男が絵に石を投げつけ、ダメージを与えたというもの。彼の投げた石は額縁のガラスに当たり、一部が破損。その影響でモナ・リザの左肘付近に損傷ができてしまいました。

その直前には、別の男が硫酸を持ち込んでかけようとする事件も起きていました。

この事件では、硫酸がガラスにかかり、幸い絵そのものには大きな被害はありませんでした。美術館側は警備の強化を余儀なくされます。

1974年:東京でのスプレー事件

1974年、「モナ・リザ」はフランス国外で展示されることになり、日本の東京国立博物館へ貸し出されました。

その展示中に女性活動家がスプレー缶を使って絵を汚そうとする事件が発生。

彼女は美術館の警備体制に不満を持ち、その抗議としてこの行動に出たとされています。

幸いにも「モナ・リザ」は強化ガラスで守られており、実際にダメージを受けることはなかったです。これをきっかけに、ルーヴル美術館はさらなる厳重な保護措置を講じるようになります。

2009年:コーヒーカップ事件

2009年には、ルーヴル美術館で観光客の女性が持っていた陶器のカップを「モナ・リザ」に投げつける事件が発生。

彼女は美術館のスタッフと口論になり、その怒りの矛先を「モナ・リザ」に向けたのです。

しかし、この頃にはすでに「モナ・リザ」は防弾ガラスで保護されていたため、カップはガラスに当たっただけで、絵には何の影響もありませんでした。

2022年:ケーキ投げ事件

そして近年でも「モナ・リザ」は新たな攻撃にさらされました。2022年には、ルーヴル美術館を訪れた男性がケーキを「モナ・リザ」に投げつける事件を起こします。

この男は変装して車椅子に乗り、「環境問題への関心を高めるため」と主張。

彼は美術館の警備員の目を欺き、突然立ち上がると、隠し持っていたケーキを「モナ・リザ」に向かって投げつけました。

もちろん、これも防弾ガラスのおかげで絵には影響はなかったのですが、ルーヴル美術館のセキュリティ体制の強化が再び議論されるきっかけとなってしまいました。

「モナ・リザ」はなぜ狙われ続けるのか?

「モナ・リザ」はただの名画ではなく、世界で最も有名な芸術作品としての象徴的な存在となっている。

そのため、注目を集めたい人や政治的・社会的なメッセージを伝えたい活動家にとって、格好のターゲットになってしまうのです。

また、1911年の盗難事件をきっかけに「伝説の絵画」としてのステータスが確立され、

ルーヴル美術館の最大の目玉展示として圧倒的な人気を誇るようになりました。その影響で、常に厳重な警備の下に置かれていますが、それでもさまざまな人が事件を起こそうと試みてしまうのです。美術館も管理が大変ですね。

ひつじ的モナリザのエピソード

私も実際にルーヴル美術館で「モナ・リザ」を見たことがあります。

展示室に入ると、そこには大勢の人が押し寄せていて、前列まで進むのも一苦労でした。

多くの人がスマホを片手に、少しでも近くで見ようと必死になっていました。しかし、驚いたのはその光景です。大半の人が「モナ・リザ」に背を向け、カメラを構えて自撮りをしていました。世界で最も有名な絵の前で、絵そのものよりも写真を撮ることが目的になっている様子が、とてもシュールに感じられました。

その光景を眺めながら、「モナ・リザ」の微笑みが意味深に見えました。まるで彼女が、

「本当に私を見ているの?」と問いかけるように、優しく、それでいてどこか皮肉めいた表情を浮かべているように思えたのです。

まとめ——永遠に守られるべき名画

1911年の盗難事件以来、「モナ・リザ」は何度も危機にさらされながらも、そのたびに守られてきました。そして今では、防弾ガラスに加え、24時間監視システムや厳重な警備が施され、過去に例のないほどの厳重な保護が行われています。

「モナ・リザ」は今後も狙われ続ける可能性が高いです。人々を魅了し続けるその神秘的な微笑みは、時に愛され、時に標的にされながら、これからも美術史における不動の存在であり続けるでしょう。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

次の記事でまたお会いしましょう。ひつじでした。