セザンヌは実は絵が下手だった?天才画家の意外な真実と現代への遺産

Still Life with Apples and a Pot of Primroses.1890

こんにちは、絵描きのひつじです。

先日、美術館でセザンヌの展覧会を見てきたのですが、隣にいた親子連れの会話が印象的でした。

小学生らしい男の子が「この絵、なんかヘタじゃない?」とお母さんに聞いていたんです。

お母さんは慌てて「そんなこと言っちゃダメよ、有名な画家さんなんだから」と答えていましたが、

実はその男の子の素直な感想は、意外にも的を射ていたのかもしれません。

というのも、「現代絵画の父」と呼ばれる

ポール・セザンヌは、実は長い間「絵が下手」だと言われ続けていた画家だったからです。

今でこそその作品は数十億円で取引され、世界中の美術館で大切に展示されていますが、彼の生涯を振り返ると、驚くべき事実が浮かび上がってきます。

挫折だらけの青春時代

1839年、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれたセザンヌは、父親の強い希望で法学を学ぶことになりました。しかし、彼の心は常に絵画に向いていました。

20歳でパリに出てきた時、彼が描いていた作品を見ると、確かに「上手」とは言い難いものでした。

当時のパリ美術界では、写実的で滑らかな筆触の作品が評価されていました。

ところがセザンヌの絵は、筆跡が荒々しく、形もゆがんでいて、色彩も妙に重苦しい。美術学校への入学試験も不合格。

同世代の画家たちからも「あいつの絵は見ていられない」と陰口を叩かれる始末でした。

実際、セザンヌ自身も自分の技術不足を痛感していました。

友人のエミール・ゾラに宛てた手紙には

「私には才能がないのかもしれない」「描けば描くほど、自分の無力さを感じる」といった弱音が綴られています。


Paul Cézanne – Les quatre saisons – L’été –
1860

サロンからの度重なる落選

19世紀のフランスで画家として成功するには、官展である「サロン」で入選することが必須でした。

ところがセザンヌの作品は、1864年から1869年まで毎年のように落選し続けました。

審査員たちは彼の作品を「未完成」「乱雑」「色彩感覚に問題がある」と酷評しました。

特に有名なのが1870年に描いた《現代のオリンピア》という作品です。

同名のマネの名作をパロディ化したこの絵は、あまりにも奔放な筆触と歪んだ形態で描かれており、サロンの審査員たちを激怒させました。

「これは絵画ではない、落書きだ」という辛辣な批評が新聞に載ったほどです。

印象派との出会いと新たな挫折


Dish of Apples.1876–77

1870年代に入ると、セザンヌは印象派の画家たちと交流を深めるようになりました。

特にカミーユ・ピサロとの友情は、彼の画風に大きな影響を与えました。

ピサロは技術的に優れた画家で、セザンヌに明るい色彩と外光表現を教えました。

しかし、ここでも新たな問題が浮上します。

印象派の画家たちが軽やかで明るい筆触で光の変化を捉えているのに対し、

セザンヌの筆は相変わらず重く、もたついているように見えました。

印象派展に参加しても、

批評家たちからは「印象派の中でも最も下手な画家」と揶揄されることもありました。

「下手」の裏に隠された革命的な試み

View of the Domaine Saint-Joseph.1880

ところが、現代の美術史家たちがセザンヌの作品を詳しく分析してみると、

驚くべき事実が判明しました。彼が「下手」に見えた理由は、

実は従来の絵画の常識を根本から覆そうとしていたからだったのです。

セザンヌは単に目に見えるものをそのまま描くのではなく、対象の「構造」や「本質」を捉えようとしていました。

例えば、りんごを描く時、彼は一つのりんごを様々な角度から観察し、

それらの視点を一つの画面に統合しようと試みました。

これが、形の歪みや不自然な遠近法の原因だったのです。

また、彼の重苦しい色彩も、実は色彩理論に基づいた計算されたものでした。

明るい色と暗い色を意図的に隣接させることで、平面的な絵画に立体感や奥行きを与えようとしていたのです。

晩年の評価転換


Still Life with Apples and Pears
1891–92

1890年代に入ると、少しずつセザンヌの真価を理解する人々が現れ始めました。

画商のアンブロワーズ・ヴォラールが初の個展を開催すると、

若い画家たちの間で大きな話題となりました。

特に衝撃を受けたのが、後にキュビスムを創始することになる

パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックでした。

ピカソは「セザンヌは我々全員の父だ」

という有名な言葉を残しています。彼らはセザンヌの作品の中に、従来の絵画の枠を超えた新しい表現の可能性を見出したのです。


Paul Cézanne, The Card Players, ca. 1892–96

現代美術への計り知れない影響


Bathers (recto); Still Life (verso)
ca. 1890 (recto) – 1900 (verso)

セザンヌが現代美術に与えた影響は、想像以上に広範囲に及んでいます。

キュビスムの誕生
ピカソとブラックが創始したキュビスムは、セザンヌの「多視点的な観察」をさらに押し進めたものです。一つの対象を様々な角度から同時に描くという手法は、セザンヌから直接受け継がれました。

抽象絵画への道筋
カンディンスキーやモンドリアンといった抽象画家たちも、セザンヌの「自然の中に円錐、球体、円筒を見よ」という言葉に大きな影響を受けました。複雑な自然を幾何学的な形態に還元するという考え方は、後の抽象絵画の基礎となりました。

表現主義の先駆け
セザンヌの感情的で力強い筆触は、20世紀初頭の表現主義運動にも影響を与えました。特にドイツの画家たちは、セザンヌの作品から内面的な感情を色彩と形で表現する方法を学びました。

現代でも続く影響力

21世紀の今日でも、セザンヌの影響は続いています。

セザンヌの多視点的な観察がキュビスムを生み、その後の視覚芸術の発展を通じて、現代の3DやVRの表現に通じると評価されることがあります。

建築の分野でも、セザンヌの影響は見逃せません。

ル・コルビュジエはセザンヌを「われわれすべての師」と呼んでいます。 セザンヌが自然を「円筒・球・円錐」といった幾何学的形態に還元して描いたことを、建築の造形思想に結びつけました。

ワルター・グロピウス

バウハウス運動において「セザンヌ的な造形感覚」がしばしば言及されます。セザンヌの「構成意識」が近代建築の造形理論と結びついたと評価されるケースがあります。

美術教育への貢献

セザンヌの観察と構造へのこだわりは、20世紀美術教育の方法論にとても大きな影響を与えた

セザンヌのもう一つの重要な遺産は、美術教育の方法論に与えた影響です。

彼の「自然をよく観察し、その構造を理解せよ」という教えは、現代の美術教育の基本となっています。

多くの美術学校では、セザンヌの静物画を教材として使用し、

学生たちに観察力と構成力を身につけさせています。

また、彼の制作プロセスの研究は、創作における試行錯誤の重要性を教えてくれます。

「下手」から「天才」への転換が教えてくれること


Nature morte aux pommes et pâtisseries, par Paul Cézanne.1879-1880

セザンヌの物語は、私たちに多くのことを教えてくれます。

まず、真の革新は往々にして「下手」や「異端」として始まるということです。

既存の評価基準に当てはまらないからといって、それが価値のないものだとは限りません。

また、長期的な視点の重要性も学べます。

セザンヌの作品が真に評価されるまでには数十年の時間が必要でした。

しかし、その間も彼は自分の信念を貫き続けました。

そして最も重要なのは、失敗や挫折を恐れずに挑戦し続けることの大切さです。

セザンヌは生涯を通じて「未完成」の作品を量産し続けましたが、その過程こそが後の美術史に革命をもたらしたのです。

まとめ

かつて「絵が下手」と言われ続けたセザンヌは、実は美術史上最も重要な革新者の一人でした。

彼の「下手さ」は、従来の絵画概念を根本から見直そうとする野心的な試みの表れだったのです。

現代に至るまで続くセザンヌの影響は、単に技法的なものにとどまりません。

彼の生き方そのものが、創造性と挑戦の重要性を私たちに伝え続けています。

美術館でセザンヌの作品を見る時、

その「不完全さ」や「ぎこちなさ」にこそ注目してみてください。

そこには、既成概念を打ち破ろうとする一人の画家の壮大な挑戦が込められているのです。

それではまたお会いしましょう。ひつじでした。