
こんにちは、イエス様大好きな絵描きのひつじです。
今日は、聖書に出てくる
「アダムとエバ」のお話を紹介します。
聖書を読んだことがない方も多いと思うので、できるだけわかりやすくお話ししますね。
アダムとエバは、聖書の最初に登場する、人類で最初の男性と女性です。
神様が創った美しい園で、何不自由なく暮らしていた二人。
でも、ある出来事をきっかけに、その楽園から追い出されてしまいます。
この物語は、ただの昔話ではなく、
「人間の弱さ」や「罪」、そして「赦しと愛」について教えてくれる、深い意味を持つお話です。
信仰を持っていない方も、
「へえ、そういう話なんだ」
くらいの気持ちで読んでもらえたら嬉しいです。
目次
創世の園での暮らし

創世の園に置かれたアダムとエバ。
彼らは、神様のかたちに創られた、光のような存在でした。
神様との完全な関係の中にいて、
罪というものを知らない、まっすぐな光の中で過ごしていました。
創世の園は、ただの楽園ではなく、神様の愛に包まれた特別な場所。
そこでは善悪の知識に触れることもなく、光の存在としての純粋さが守られていたのです。
想像してみてください。
何の心配もなく、誰かを疑うこともなく、
恥ずかしいとか、怖いとか、そういう感情すら知らない世界。
それが、アダムとエバが暮らしていた園でした。
園には、たくさんの木がありました。
その中に、二本の特別な木があったのです。
一つは「命の木」、もう一つは「善悪を知る木」。
神様は、すべての木の実を食べていいと言ってくださいました。
ただ一つ、「善悪を知る木」だけは、食べてはいけないと。
ちなみに、この時点ではまだ「エバ」という名前はありませんでした。
アダムの妻は、ただ「女(イシャー)」と呼ばれていたのです。
「エバ」という名前がつけられるのは、もっと後のことです。
なぜ神様は禁断の木を置いたのか

ここで不思議に思う人もいるかもしれません。
「食べてはいけないなら、最初から置かなければよかったのに」と。
でも、神様は人間に「自由意志」を与えました。
ロボットのように、ただ従うだけの存在ではなく、自分で選び、決めることができる存在として。
愛は、強制されるものではありません。選ぶ自由があるからこそ、神様を選ぶことに意味があるのです。
禁断の木は、その「選ぶ自由」の象徴でした。
従うか、従わないか。信じるか、疑うか。その選択が、人間に委ねられていたのです。
神様は、アダムとエバを愛していたからこそ、自由に選ぶ力を与えたのです。
蛇の誘惑

しかし、ある日、園に現れた狡猾な蛇が、二人の心を揺さぶります。
創世記3章1節には、「野の獣の中で最も狡猾」と描かれています。
ヘブライ語の原文では、蛇は元々四つ足で美しい生き物だったとも解釈されていて、
その美しさが、誘惑の力を増幅させる存在だったのかもしれません。
蛇は女(後のエバ)に語りかけます。
「神様は本当に、あなたがたに食べることを禁じたの?」
その言葉は甘く、魅力的で、光の中にある二人の心を惑わせました。
神様は園のすべての木の実を食べていいと言ってくださっていました。
ただ一つ、「善悪を知る木の実」だけは、食べてはいけないと。
でも蛇は続けます。
「それを食べても、あなたがたは決して死なない。
神様のように賢くなることを、神様が恐れているだけよ」
その言葉は、女の心に小さな疑いの種を植えました。
「もしかして、神様は私たちに何かを隠しているの?」
「本当は、もっと良いものがあるのに、教えてくれていないの?」
誘惑は、いつもこんなふうに始まります。
神様への信頼を、少しずつ揺るがしていくのです。
光が影に変わった瞬間

女は禁断の実を手に取り、アダムもそれを口にしました。
その瞬間、無垢な光は影に包まれ、
二人は羞恥と恐れを初めて知ることになります。
自分たちの裸を知った二人は、
いちじくの葉で腰をおおい、必死に隠そうとしました(創世記3:7)。
でも、葉はあくまで一時的な覆い。心の奥まで守ることはできませんでした。
それまで何も感じなかった「裸」が、急に恥ずかしいものになった。
神様の声が聞こえると、怖くて隠れてしまった。
これが、人間が初めて経験した「罪」でした。
神様が園を歩く音が聞こえたとき、アダムと女は木の間に隠れました。
神様が「あなたはどこにいるのか」と呼びかけても、
恐れて出てこられなかったのです。
そして、アダムは言いました。
「私は裸なので、恐れて隠れました」
神様は尋ねます。
「誰があなたに、裸だと教えたのか。
食べてはいけないと言った木の実を、食べたのか?」
それぞれに与えられた結果
神様は、蛇と女とアダム、それぞれに語りかけました。
蛇への罰
まず蛇には、地を這う存在になる罰が与えられます(創世記3:14)。
美しかった蛇は、腹で地面を這い、
一生、土を食べることになったのです。
そして、神様は蛇にこう言いました(創世記3:15)。
「わたしは、おまえと女との間に、おまえの子孫と女の子孫との間に、
敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
この言葉は、後にイエス・キリストが悪(蛇=サタン)に勝利することの預言として解釈されています。
「女の子孫」であるイエスが、十字架の死と復活によって、
悪の力を打ち砕くという約束です。
女への結果

女には、出産の痛みが与えられました(創世記3:16)。
「わたしは、あなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産む。」
命を産み出す喜びと同時に、
大きな痛みを伴うようになったのです。
アダムへの結果
アダムには、労働の苦しみが与えられました(創世記3:17-19)。

「土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはちりだから、ちりに帰るのだ。」
これは、死が人類に入ってきたことを意味しています。
それまでは永遠に生きることができたのに、罪を犯したことで、人間には寿命が与えられ、
いつか必ず死ぬ存在になってしまったのです。
でも、これらはただの罰ではありませんでした。
痛みや苦しみを通して、人間は成長し、学び、神様に立ち返る機会を得たのです。
エバという名前の意味

ここで、アダムは妻に名前をつけます。
創世記3:20には、こう書かれています。「さて、人は、その妻の名をエバと呼んだ。
それは、彼女がすべて生きているものの母であったからである。」
それまで「女(イシャー)」と呼ばれていた彼女に、
アダムは「エバ(ハヴァ)」という名前をつけました。
エバは、ヘブライ語で「生きる者」「命を与える者」という意味です。
ここに、とても深い意味があります。
エバが実を食べたことで、「死」が人類に入ってきました。
彼女の選択によって、人間は死ぬ存在になってしまったのです。
でも、アダムは彼女に「生きる者」という名前をつけた。
なぜでしょうか?
それは、神様が蛇に言った預言の言葉を、アダムがちゃんと聞いていたからです。
「女の子孫が、おまえの頭を踏み砕く」
つまり、女から生まれてくる子孫の中に、救い主が現れる、という約束です。
アダムは、この約束を信じました。彼女を通して、人類は続いていき、
いつか救い主が生まれてくる。
その希望と信仰を込めて、「エバ(生きる者)」という名前をつけたのです。
神様の愛による覆い

ここで神様は、ただ罰するのではなく、
愛と正義によって覆いを与える方法を示してくださいました。
創世記3:21には、
「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。」
とあります。
命ある動物を犠牲にすることで得られた皮。
それは、罪を犯した人間を覆うためのものでした。
いちじくの葉では足りなかった。自分たちの力では、心を守ることができなかった。
だから神様が、命を犠牲にして、覆いを与えてくださったのです。
これは、聖書全体を通して最初の「犠牲」です。
動物の命が、人間の罪を覆うために捧げられた。
この出来事は、後にイエス・キリストが人類の罪のために命を捧げることの型(前兆)として解釈されます。
罪を犯した人間を見捨てるのではなく、ちゃんと覆って、守ってくださる。
それが神様の愛でした。
園からの追放

罪を犯したアダムとエバは、もはや光の中に無垢なまま留まることはできません。
創世記3:22-24には、
「神である主は仰せられた。『見よ。人はわれわれのひとりのようになり、
善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、
永遠に生きないように。』そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されて、人が土から取られたその土を耕させた。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。」
とあります。
これは、二人が「命の木」に近づけないようにするためでした。
もし罪を持ったまま命の木の実を食べてしまったら、
罪を抱えたまま永遠に生きることになってしまう。
それは、祝福ではなく呪いになってしまうのです。
神様は、二人を園から追い出すことで、ある意味、守ってくださったのです。
光の存在として創られた二人は、現実世界での戦いと成長のために、
歩みを進めることになったのです。無垢の光を失ったけれど、
神様の愛による覆いがあり、守られながら新しい世界へ踏み出すことができました。
園を追い出されることは、罰であると同時に、新しい旅の始まりでもあったのです。
その後のアダムとエバ

園を出た後、アダムとエバには子どもが生まれます。カインとアベル、そしてセツという息子たちです。
彼らの人生は、決して楽ではありませんでした。
土地を耕し、汗を流して働き、痛みや苦しみと向き合いながら生きていく。
エバは、出産の痛みを経験しました。それは、罪の結果として与えられたものでしたが、
同時に、新しい命を迎える喜びでもありました。
エバは、長男カインを産むとき、こう言いました。
「私は、主によって、ひとりの男子を得た」(創世記4:1)
苦しみの中でも、神様の恵みを感じていたのです。でも、神様は彼らを見捨てませんでした。
導き、守り、共に歩んでくださったのです。
罪と贖いの物語が教えてくれること
この物語は、光の存在が闇を知り、

罪を犯すことで失われた無垢と光を描きながらも、
神様の愛と贖いによって再び覆われ、守られる希望を示しています。
裸を隠すいちじくの葉から、神様の皮による覆いまでの流れの中で、
私たちは自分の弱さや罪と向き合いながら、赦され、守られる道を見出すことができるのです。
完璧じゃなくていい。失敗してもいい。
神様は、私たちを覆い、守ってくださる。
アダムとエバの物語は、遠い昔の話ではなく、今を生きる私たちの物語でもあります。
誘惑に負けてしまうこと。自分の力では立ち直れないこと。
でも、神様の愛によって覆われ、新しく歩み出せること。
その希望が、この物語には込められているのです。
まとめ

アダムとエバの物語は、人間の弱さと、神様の愛の両方を教えてくれます。
光の中にいた二人は、誘惑に負けて罪を犯し、園から追い出されてしまいました。
でも、神様は彼らを見捨てず、動物の皮で覆いを作り、
守りながら新しい世界へ送り出してくださいました。
そして、アダムは妻に「エバ(生きる者)」という名前をつけました。
死をもたらした女でありながら、同時に、すべての生きている者の母であり、
救い主を生み出す希望でもある。
自分の力では守れない心を、神様が覆ってくださる。
それが、この物語の中心にあるメッセージです。
罪と贖いの物語は、今も私たちの心に光を差し込み、
学びと成長、そして神様の導きの中で生きることを教えてくれています。
今日は、アダムとエバの物語をお話ししました。
それではまたお会いしましょう。ひつじでした〜!








