正義の胸当て — 光の中で描くということ

こんにちは。
絵を描くことと祈ることが、いつの間にかひとつになっている、絵描きのひつじです。

私はイエス様が大好きで、聖書を読む時間をとても大切にしています。


人によっては

「それって宗教なの?」

と思うかもしれません。


でも、私にとって信仰は“宗教”というより、神様との関係です。


神様と語り合い、導かれながら歩む日々のこと。


その中で、心が神様のもとに立ち返っていくような静けさを感じます。

聖書には、神の言葉──「ミコトバ(御言葉)」が書かれています。


それは昔の教えではなく、今も生きて働く言葉。


読むたびに、心が照らされ、迷っていた道に光が差すような力があります。

今日はその中から、私がとても好きな部分


「正義の胸当て」について少しお話ししたいと思います。

絵を描くとき、私はこの胸当てを身につけているような気がします。


光の中で描くということは、


心を守りながら、祈るように筆を動かすこと。


そんな静かな時間のことを、今日は書いてみます。

聖書には、信仰者の心を守る象徴として「神の武具」が示されています。


• エペソ6:14「真理の帯を腰にしめ、正義の胸当てをつけよ」
• 詩篇 91:4「神の翼の下にあなたは避け所を得る。その真実は盾とよろいとなる」
• イザヤ41:10「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。…わたしはあなたを強め、あなたを助ける」

絵を描くとき、心を守るもの


絵を描くとき、私はこの胸当てを身に着けるような感覚があります。


それは、形が崩れても、光がにじんでも、心が守られているという感覚。


静かな祈りの時間です。


筆を動かすとき、外の世界のざらつきや評価から少し距離を置き、


光や空気を感じることに意識を向ける。


善悪や勝敗ではなく、「美しい」と感じる瞬間が心を満たします。


キャンバスの前に座ると、世界が少し静かになる。


SNSの誰かの評価も、自分の絵が売れるかどうかも、


そういうことが、ふっと遠のいていく。


ただ、目の前の色と光だけがある。


筆に絵の具を含ませて、一筆、また一筆。


その繰り返しの中で、心が静かに整っていくのを感じます。


それは、祈りの時間に似ています。

正義の胸当てとは何か

エペソ6章には、「神の武具」として、いくつかの防具が紹介されています。


真理の帯、
正義の胸当て、
平和の福音の備え、
信仰の盾、
救いのかぶと、
御霊の剣。


その中でも「正義の胸当て」は、心臓を守るための防具です。


心臓は、命の中心。そこを守ることは、自分の核を守ることと同じです。


正義の胸当ては、神様の正しさによって守られる、という意味。


自分の力や正しさではなく、神様の正義によって、心が守られる。


絵を描くとき、私はこの胸当てを身につけているような気持ちになります。

外の世界のざらつきから離れる

現代は、情報があふれています。

SNSを開けば、誰かの成功が目に入り、焦ったりすることもあります。

「もっと上手く描かなきゃ」
「もっと評価されなきゃ」
「もっと売れなきゃ」


そんな悪魔の囁きが心の中でざわざわと響く。でも、キャンバスの前に座ると、


その声が少しずつ小さくなっていきます。


筆を持つ手に意識を向けると、呼吸が深くなる。


色を選ぶとき、心が静かに「これだ」と教えてくれる。


外の世界の評価や基準ではなく、自分の心が感じる美しさに、素直に従うことができる。


それが、正義の胸当てに守られている時の私の感覚です。

光と空気を感じること

絵を描くとき、


私は「見たもの」をそのまま描くのではなく、


「感じたこと」を描いています。目の前のりんごを描くとしても、


そのりんごの正確な形よりも、光と空気がどう流れているか、


その「やわらかさ」を感じ取ろうとします。


それは、技術ではなく、心で受け取るものです。


神様が創られた世界には、目に見えるもの以上の美しさがある。


光の中に、温度がある。空気の中に、優しさがある。


それを感じ取ることが、私にとっての祈りです。

世の善悪や勝敗ではなく、美しさ

世の中は、この世の善悪や勝敗で測られることが多い。


「これは正しい」「これは間違っている」


「この人は成功している」「この人は失敗している」


でも、絵を描く時間は、そういう基準から離れられる場所です。


善悪ではなく、美しいかどうか。


勝敗ではなく、心が満たされるかどうか。


その瞬間、私は自由になれます。


神様の前では、私たちはみんな不完全で、


罪人です。


でも、神様はそんな私たちを愛してくださっている。


その愛の中で、私は自由に筆を動かすことができます。


完璧に描けなくてもいい。上手じゃなくてもいい。ただ、心が感じた光を、
そのまま画面に置いていけばいい。


それが、正義の胸当てに守られた自由です。

日常の中で戦うとき


しかし、現実の生活では戦わなければならないこともあります。


理不尽に向き合ったり、困難を乗り越えたりする瞬間。


誰かに傷つけられたとき。


自分の弱さに打ちのめされそうになったとき。


前に進む力が見つからないとき。


そんなときも、この胸当ての存在を思い出すことで、


心の芯を守りながら、必要な勇気を持って立ち上がれます。


「神様が共にいてくださる」


その確信が、私を支えてくれる。戦うことは、


自分の心を守りながら、誠実に、正直に、目の前のことに向き合うこと。


それが、私にとっての戦いです。


絵を描く時間に得た静けさが、日常の戦いの中でも、私を支えてくれます。

守られながら、勇気を持つ


正義の胸当ては、ただ守るだけのものではありません。


守られているからこそ、


勇気を持って前に進むことができる。


神様の正義に守られているから、自分の弱さを認めることができる。


完璧じゃなくても、立ち上がることができる。


絵を描くときも同じです。完璧に描けなくても、失敗しても、


心が守られているから、また筆を取ることができる。


評価されなくても、理解されなくても、神様が見ていてくださるから、
描き続けることができる。


その安心感が、私にとっての胸当てです。

光の中で、静かに

少しでも神様の光を感じられたら、それで十分。


絵を描く祈りの時間は、日常の戦いに立ち向かうための力をも、
静かに与えてくれるのです。


心が感じた光を、そのまま画面に置いていく。


それが、私の祈りであり、生きる力になっている。


正義の胸当てを胸に、今日も私は筆を取り、光の中で祈り、心を守る。


そして必要なときには、勇気を胸に歩みを進める。

絵を描くことと信仰

絵を描くことは、私にとって信仰の表現でもあります。


神様が創られた世界の美しさを、心で受け取り、


手で表現する。それは、神様への感謝であり、


祈りであり、対話です



この光を見せてくださって、この色を感じさせてくださって、この瞬間を与えてくださって。
すべてが、神様の恵みです。


そして、その恵みの中で、私は守られている。正義の胸当てに守られて、


自由に、安心して、絵を描くことができる。それが、どれほど幸せなことか。

今日は、正義の胸当てのお話でした。


絵を描くこと、祈ること、守られること。勇気を持つこと。


そんな日々の中で感じることを、また言葉にできたら嬉しいです。


それでは、またお会いしましょう。ひつじでした。